石原吉郎とヴィクトール・フランクル

石原吉郎ヴィクトール・フランクルを論じたい。
 両者ともに強制収容所という耐えがたい状況を生き抜いたという共通点がある。しかし、フランクルは希望を語り、石原吉郎は絶望を語るという対比的特徴がある。それが両者を論じようという動機となっている。もちろんフランクルの希望とは絶望をくぐってのものであり、その点では石原吉郎にも「あるペシミストの勇気」と題したエッセイでやはり絶望をくぐっての希望を語るものがある。
 両者の強調点が片方はより希望であり、他方がより絶望を語るという点に興味をひかれるのである。
 フランクルがロゴセラピーという体験を下敷きにした心理療法を提唱するに至り、石原吉郎が詩という自己表現に至ったというのがそれに何か関係があるかどうか。
 両者を比較する視点として「正義」を取り上げることにしたい。そこではアマルティア・センの論議を参考にしたい。
 センの見解を取り入れるのは、石原吉郎の論に私が強くひきつけられてしまうからである。平衡感覚を保つためにセンという社会科学者の論に軸足を置いておきたいのである。
 石原吉郎フランクルの視点はセンの視点とは交わるもののない、次元の異なるものかもしれないのである。だからここで三者を無理に同一の土俵に上げなくともよいと考えている。あくまでも偏向した見解をとらない用心なのである。したがって途中でセンには退場願うかもしれない。