良寛という生き方

ええ、今日は講演口調で話したいと思います。

 講演といっても人によっていろいろできっちりと構成がなってほとんど講義のような講演をする人もいるんじゃないかと思いますが、それはちょっと難しいんで。

 安部公房という有名な文学者がいました。SF的な作品が多くて、ノーベル賞候補でしたけどもらわないうちに他界してしまいました。この安部さんの講演というのが中々面白いんですが、安部さんはその中で講演の準備というのはいつもしていないというんですね。講演の準備をしないでなにかその時の思いつきをしゃべって講演料はしっかりもらうというのは講師としてはうまい汁で、それを聞いたとき、これだと思いまして、今回は安部調で、なんか自分のやっていることで漠然となにかあるんだけど整然と整理はされていないけど、まあなにか人に聞いてもらえるようななにかをとりとめもなくしゃべると、それで時間をつないでいくという調子でこの文章を書いていったらどうかと。

 もちろん、それは、安部公房の講演が本人の口とは裏腹にしっかりと聴くに堪える内容になっているので、わたしも安部公房とは比べるべくもないのですが、後から読むと読むに堪える内容となっているということを期待しているわけです。

 前置きはこれくらいにして本文にさっそく入っていきたいと思います。

 構成はきっちりしてはいないんですが、話の核には良寛を考えていて、良寛を中心にした話をしたいと思います。

 今回の講演のテーマは若い人の生きる参考になるものということです。

 良寛といいますと、すぐに抹香臭い人というイメージをもたれる方が多いと思われますんで、良寛と聞いただけできょうの講演はもうアウトだとそう思わないでいただきたいんです。

 つまり、こう暗い世の中で、若い人にも引きこもりが多いというコミュニケーションもとりづらい、人と対面してなにかをしようというのがひどくつらいと思っている人が一定数いるという社会において昔のそれも僧という普通の人とは違う存在であった良寛という人が参考になるというわけをお話してみたいと思います。

 よく最近の本では「○○という生き方」という題名をつけたものがあります。この○○というのには人の名前がはいるんでして、これちょと違和感を持ちませんか。つまり伝記であれば、「○○の生涯」というふうに素直に言えばいいのに、「という」が入ると、その人の伝記じゃない印象を与えますよね。もちろん、出版社はそれが狙いということでしょうが、では何を狙っているんでしょうか。むろん、○○という個人にとどまらない普遍的なものがそこにはあるんだよということを言いたいんでしょう。

 実は良寛についてもまったく同じことが言えるんです。つまり、良寛良寛という自分の人生を生きたわけですが、彼が生きようとしたのは、仏教者とか隠者とかある種の人生観、世界観を持った人が追求してそういう形に収れんしてきた「生き方」に自分も合わせて行ったという生き方をした人なんですね。

 ですから、良寛の生き方を検討するというのは、そういう考えを持ったある集合というか集団、人たちを考えるというのと同じことなんですね。今風な題名をつけるとすれば、ですから「良寛という生き方」ということになります。そうであれば、良寛は江戸時代という封建時代に生きた人でしたが、現代でも良寛的に生きるという人はいて不思議はないわけです。