親が死ねばほっとする

ロシアの文豪ツルゲーネフの作品に「父と子」というのがある。一人ツルゲーネフだけじゃない、日本にもまた他の国でも古来今日に至るまで親と子の葛藤は根深い。
エディプスコンプレックスというのはフロイトギリシア神話から抽出してきた概念だ。
親でも父の場合と母の場合では違った反応がある。父は子を指導したり叱ったりする立場で母は子を庇護する立場だ。だから父と子は対立することはあっても母と対立する場合は少ない。
今回はしかしまた別の面から親を見たいと思う。
わたしは自分で本を買うがまた図書館でもよく借りるほうだ。最近の図書館では本ばかりでなく視聴覚資料といってCDやDVDもそろっている。ある時安部公房の講演をカセットテープで借りた。今調べてみるとどうやら「小説の発想」というテープだったようだ。主に「箱男」のアイデア周辺を語ったものだ。
聞いた時安部公房がずいぶんいい声をしてるなということに意外な気がした。なにか作家らしくないのだ。これはこちらのイメージ通りでないというだけのことであるが、へぇーという感じで聞き始めた。
それですぐにブラックジャックという人を殴る凶器の話をし始めたのには仰天した。話し方もなにかやくざが自分の道具をしゃべるようなごく普通のものを解説しているような風だったのでまた驚いた。
そのうち作家というのは、こういうものにこういう感覚で接することができないとだめなんだと思いまた作家というものに対する認識を改めさせる気がした。
そうこうしているうちにどういう展開か親について話が及んだ。
親というものに脅したり殴ったりするという話になり、唐突に親が死ぬと子はほっとするもんだということをしばらく繰り返した。これにはぎょっとさせられた。
▼父が死んだ時
わたしの父はペースメーカーを入れて1年後に脳内出血が因で亡くなった。
最後の二週間くらいは集中治療室に入っていた。
最期の時の記憶は、ベッドで父に心臓マッサージをしていた医師が臨終を告げた時だ。
母が「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え、子が唱和する。
南無阿弥陀仏」と唱えた時ぐいと引かれるように頭が下がった。これを当時念仏の力だと感じた。同時に気持ちが楽になった。
その時いままで意識することなく意識していた父という存在、自分の状態を報告せざるを得ない存在としての父がいなくなってしまった喪失感。もう言うことができないという思いと同時にもう言わなくてすむ、自分はこうなったよと傍から無言の監視をしていた父がいなくなったという安堵感。
安部のいう「ホッとする」という感じのいわれを言ってみれば、こういうことだったのではないか。これからは自分を支えていたものがなくなり、自分一人で立っていくという感じ、同時に確かにほっとしている自分。これは何に由来する感情だろうという疑問。
それを安部がさも当然の真理のように指摘した。もし親が死ぬ前だったら別にそれほどの感がいなく聞き飛ばしていたろうと思う。